2017年2月11日土曜日

宿命と運命

 特別に信仰している宗教はありませんし、神や仏に関しても常に自分の都合のいいように解釈しています。
 
 ご存知でしょうが、運命と宿命があるといわれています。
 宿命とは宿る命、すなわち生まれながらに宿っている命。
 運命とは運ぶ命、すなわち自分でコントロール出来るもの。
 と解釈し理解しています。

 Facebookには書いたのですが、後から読み返すと思っていたことが上手く文章化出来ずに、おかしな文章になっていましたので、改めてここで書きたいと思います。

 自分の人生は宿命で決まっているように思えてなりません。大事故や大怪我、大病に見舞われてもしぶとく生きている自分。
 
 事故で言えば、30年程度前の首都高速5号線での大事故、当時の「フライデー」「フォーカス」などにも取り上げられた5時間程度の5号線の通行止めでの事故の被害者でした。幸いなことにかすり傷一つありませんでしたが、乗っていた大型トラックのキャビンは全損。H型鋼材の過積載トラックが横転し僕の運転するトラックのキャビンを潰しました。後、1mずれていたら僕は下敷きでした。
 
 乗用車では、車が2,3回横転し大破。偶然、通りかかかったDr.がその事故を目撃…。Dr.曰く、運転者は死んでしまっただろうなーと思ったらしいが、そのDr.の病院に搬送されるという結末。怪我も、足を怪我し数十針縫うが、他に怪我はなし。
 
そして、2003年の左腕の事故、怪我。これも、あと数センチで頭が挟まれていた状況。入院中も破傷風などにもならず、順調とは行かなかったがそれなりに回復。

 自分の母親は、僕が26歳の時に50歳でくも膜下出血で亡くなっている。回復の傾向であったので、非常にショックであった。僕は男3人兄弟で、女の子が欲しくて欲しくて仕方なかったようだ。母親が亡くなった翌年、僕は女児を授かった。
 
 2011年の東日本大震災。謂れなき沢山の方々の死。当然、東日本大震災に限らず全ての災害や紛争もあてはまります。

 この差はなんなんだ…。
 なんの罪のない人、何も悪くない人…
 なんで、僕は生きているんだ???
 
 生きたくても生きられない人、生きたくなくても死ねない人、いい人が早死し悪人が長生きする。
 
 世の中は理不尽・不条理なことだらけ。
 亡くなった方々には失礼な言い方になるのかもしれませんが、生きてる人亡くなった人含めて全ては宿命なのかなと…。
 
 当然、僕の母親も。

 しぶとく生きている自分もまた宿命だったのかなと…。

 そう思わないと、辻褄があいません。そう思わないと自分が生きて行けない気がします。宿命で生かされている現在、一度ならず二度三度と死んだも同然な自分。
 
 なぜか自分でも分からないのですが、誰かの役にたつことがしたいと自然に思うようになりました。出来れば必要とされている部分や場所でならなおいい。いままで、ボランティアなどまったく別世界で偽善者の集まりだと思っていた自分だが、現在、自分はその渦中にいる。偽善者でもなんでもいい。真相は自分自身が知っている。

 お金は無くては困るが最低限の生活が出来ればそれでいい、本当に変だが余分には欲しいと思わない。(若い頃は常に拝金主義でしたが)死んであの世にも持っていけないし、なまじ遺産があると残された家族仲が悪くなることも想定できる。(資産など無いですがね…)
 
 死に対して恐怖はない。ただ「無」になるだけ。痛いも怖いもだいぶ経験したからそんな心境になるのか、まったくの無意識での強がりか、はたまた単なる鈍感か?まあ、いずれにせよそんな心境。

 宿命で決まっている人生だが、終わりはいつかは分からない。明日かもしれないし、あと、半世紀後かもしれない。だが、終りが来ることは間違いのない事実である。
 
 世の中が良くなることに越したことはないが、そんな大それたことは考えていなく、ただただ、自分の好きなように自分の信じた道を歩んでいてそれが最大の幸せだと実感している。「犀の角のようにただ独り歩め。」といったところでしょうかね…。
 
 そんなかんじで運命を作って行っているのでしょうか?

 本日もご覧いただきありがとうございました。

 多謝、羽根。

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